第124回国際研修
平成15年(2003年)4月21日から同年6月13日
1 研修の主要課題
第124回国際研修は,「刑事司法過程における薬物乱用者のより効果的な予防及び処遇の促進」を主要課題として行われました。
薬物乱用はグローバルな社会問題であり,そこから派生する問題も大きいものです。
まず,非合法薬物は,密造,合成,密輸等の活動を介して供給源である国際犯罪組織の重要な収入源となっており,犯罪の増加,腐敗,各種の社会資源への被害などを通じて,社会秩序や政治経済的な安寧を脅かしています。また,薬物乱用者はいくつかの国においては,刑務所等の矯正施設の過剰収容をもたらす重要な要因の一つとなっており,矯正施設の適正な管理や更生プログラムの円滑な運営を圧迫しています。さらに,薬物依存症や薬物乱用は,HIV/AIDS,肝炎等の感染症へのり患可能性を高めることにより,青少年から成人に至るまで幅広い層の健康・福祉を蝕み,個人・家庭・地域社会の健全な発展を阻害する一因にもなっています。しかも,各種の実証研究によれば,薬物乱用は重要な再犯予測因子の一つであることが知られています。薬物乱用者自身が薬物購入資金獲得目的や薬物乱用の影響下で各種の犯罪に至ることも実務上しばしば経験するところであります。かように薬物乱用問題は,犯罪防止から犯罪者処遇に至るすべての刑事司法運営に大きなインパクトを与えています。
こうした問題の深刻さにかんがみて,これまで薬物乱用撲滅に向けた各国独自の方策が取られてきたほか,G8先進国首脳会議薬物専門家会合や国連等の国際組織・団体を中心に様々な施策が展開されてきました。現在,国連が採択した薬物乱用に関する多国間条約には,1961年の麻薬に関する単一条約(単一条約),1971年の向精神薬条約(向精神薬条約),1988年の麻薬及び向精神薬の不正取引の防止に関する国際連合条約(麻薬新条約)があり,前駆物質を含めた非合法薬物の統制,薬物取締りに関する国際協力の拡充等が図られ,これに対応した薬物の不正取引の防圧及び薬物供給面の削減対策も国内法の整備等により組織的に展開されています。
他方,薬物乱用問題に効果的に対処するためには,供給の統制や削減とともに薬物需要の削減についても対策を講じ,包括的でバランスの取れた総合的な施策を展開して行く必要があります。たとえば,薬物問題に関する1998年の第20会期国連特別総会は,薬物需要の削減プログラムが薬物乱用や密輸の撲滅に向けた包括的な取組みの中で重要な鍵となることを認識し,「薬物需要削減に向けた指導原則宣言」を採択しています。特に,同宣言第13-14項は,予防や処遇の際に対象者に特別なニーズに焦点づけるべきことを強調しており,また,第15項及び17項は,科学的に信頼のおける情報や,効果改善のための検討や評価を奨励しています:
13. 需要削減プログラムは,一般市民のニーズに着目するとともに,特別な集団におけるニーズに,特に若年層に注意を払い企画されるべきである。プログラムは,性別,文化,教育の違いを考慮し,リスクがあるこうした集団にとって効果があり,それぞれに相応し,アクセス可能なものとすべきである。
14. 薬物乱用犯罪者の社会的再統合を促進するため,加盟国の国内法や政策に合致し適切な場合には,各政府は,有罪判決又は刑罰の代替措置として,あるいは刑罰に付加して,薬物乱用者に対する治療,教育,アフターケア,社会復帰,社会への再統合がなされるべきである。加盟国は,適切な場合には,刑事司法制度の中に,教育,治療,社会復帰に向けたサービスを通じて薬物乱用者を支援する能力を開発すべきである。こうした総体的な文脈にかんがみれば,刑事司法,保健及び社会的諸制度間の緊密な連携が必須であり,かつ奨励されるべきである。
15. 教育・予防プログラムに活用される情報は,簡明で,科学的にも正確かつ信頼性があり,文化的に妥当で,時宜にかない,可能な場合は,ターゲットとなる集団を用いて検証されるべきである(以下略)。
17. 需要削減対策及び個々の諸活動は,その効果を査定し改善するため十分な評価をすべきである。評価は,個々の文化や関連プログラムについても適切になされるべきである。こうした評価の結果は,関心を持つすべての者が共有すべきである。
このように,薬物需要の削減にとって,薬物乱用の早期発見・予防や,薬物乱用者の個別のリスクやニーズに対応した処遇や社会復帰のサービスの提供が重要な課題と考えられます。また,これは科学的にも信頼でき,妥当で効果のあるものでなければなりません。こうした理由により,本研修では,「刑事司法過程における薬物乱用者のより効果的な予防及び処遇の促進」を検討しました。より具体的な検討趣旨は以下のとおりです。
まず,薬物乱用の防止施策については,重層的な枠組みから検討を加えることができます。すなわち,「一次予防」は幅広い一般市民層への啓発活動を中心として展開され,「二次予防」は薬物乱用の可能性が高いハイリスク集団に向けて展開され,「三次予防」はすでに乱用に陥った薬物乱用者が再発を停止しようとする際に展開されています。さらに,効果的な薬物乱用防止対策は,ハイリスクの人々の早期発見・介入を必要とします。この関連では,警察やその他の刑事司法機関が様々な実践を積み上げてきています。
一方,薬物乱用者に対する処遇の充実に関しては,各国で優勢な乱用薬物の種類や薬物事犯に関する法制度等の違いに応じて対策にも違いがあるものの,多様な介入プログラムが活用されてきました。例えば,薬物乱用者に対するプログラムには,解毒,代替薬物の処方,治療共同体モデルによるアプローチ,学際的処遇チームによる心理・社会的介入,集団カウンセリング,ブートキャンプ処遇,薬物再発防止プログラム,社会への再統合に向けた認知・行動スキル訓練やサポートなどがあります。また,刑事司法各段階における対応に着目すれば,いくつかの国においては,拘禁に代わる社会内措置の拡充の一環として,あるいは早期介入を実施するため,警察,検察,裁判までの各段階での社会内ダイバージョンプログラムが構築されてきています。施設内処遇においても,薬物乱用者専用の処遇施設や区画を設けたり,薬物乱用者の再犯リスクやニーズに応じた集中的プログラムを実施するなどの実務が各国において展開されています。こうした各国の経験や実務は,適用可能性,継続可能性,費用対効果,評価研究や証拠に基づいた実務の結果等の観点から再検討することができます。こうした実務上の知見や経験は,有用な知識ベースとして蓄積することが可能であり,各国において適用可能な範囲で薬物乱用者対策実務のさらなる改善に反映してゆくことができます。
以上の趣旨を踏まえ,本研修は,研修員に,各国における薬物乱用の動向,薬物乱用者に対する処罰,薬物乱用防止及び薬物乱用者に対する処遇方策の現状,並びに当面する課題を相互に学ぶ機会を与えるとともに,今後,刑事司法の各段階において,薬物の乱用をできる限り防止し,薬物乱用者を効果的な処遇により社会に再統合するため必要かつ有効な方策を検討する機会を提供することを目的としています。
本研修の議論の焦点を要約すれば,次のとおりです。
(1) 各国における薬物乱用の実情,薬物乱用の防止,薬物乱用者に対する処罰及び処遇に関する法制度,薬物乱用防止・薬物乱用者処遇の実務やプログラムの現状を分析する。
(2) 各国機関が薬物乱用の防止,薬物乱用者の処罰や処遇に関し,実務上直面している問題点と今後の課題を抽出する。
(3) 各国の刑事司法における有用な実務や関連する実証的研究の知見を踏まえて,刑事司法制度の各段階における,より効果的な薬物乱用防止対策及び薬物乱用者の再犯防止に役立つ処遇の方向性を検討する。
2 客員専門家による講義の概要(講義日程順・肩書きは講義当時のもの)
- (1) シェリーン・サディク女史( Ms. Shereen Sadiq )
連合王国 連合王国内務省刑事司法介入プログラム薬物部門司法政策指揮
*講義テーマ
「英国における薬物乱用防止策」
「警察段階における処遇委託制度及び薬物治療検査命令等の運用状況について」 - (2) フアナ・トーマス・ロセロ氏( Dr. Juana Thomas-Rossello )
オーストリア 国連薬物犯罪オフィス需要削減部門研究官
*講義テーマ
「需要削除方策を中心とする包括的薬物統制施策について」
「効果的な薬物乱用治療・社会復帰の支援策について」 - (3)デチャ・サンカワン氏( Dr. Decha Sungkawan )
タイ タマサート大学副学長
*講義テーマ
「タイの薬物乱用問題及び処遇の現状」
「薬物乱用者更生法(2002)によるタイバージョンプロジェクトの動向及び方向性」 - (4)ブライアン・グラント氏( Dr. Brian Grant )
カナダ カナダ連邦矯正局嗜好研究センター所長
*講義テーマ
「カナダ矯正の文脈から見た薬物乱用問題」
「薬物乱用プログラム:良いプログラムデザインの原則及びアセスメント」
「薬物乱用に対する介入の現状:リサーチ及び最近の発展」
3 特別講師(講義日程順・肩書きは当時のもの)
- (1)長塚敏明氏( 警察庁生活安全局薬物対策課警部 )
*講義テーマ
「警察における薬物乱用対策」 - (2)山本順二氏( 厚生労働省医薬局監視指導・薬物対策課課長補佐 )
*講義テーマ
「厚生労働省における薬物乱用対策について」 - (3)和田 清氏( 国立精神神経センター精神保健研究所薬物依存研究部長 )
*講義テーマ
「薬物依存概念と日本の薬物乱用状況」 - (4)妹尾栄一氏( 東京都精神医学総合研究所副参事研究員 )
*講義テーマ
「薬物依存症の治療概論及び望ましいケアネットワークの構築について」 - (5)近藤恒夫氏( 日本ダルク本部・APARI副理事長 )
*講義テーマ
「薬物依存からの回復を支援する民間自助グループの役割について」 - (6)尾田真言氏( 中央大学講師 )
*講義テーマ
「アメリカ合衆国におけるドラッグ・コートについて」